なぜ、交通事故が軽く扱われるのか(3)
原因 その7 裁判所 被害者救済の砦
平成15年6月19日
 

裁判所
裁判所は被害者救済の砦か?
最終的には、被害者は裁判所に訴えるしかありません。裁判所はどうでしょうか。
事故処理の裁判としては、業務上過失致死罪の刑事裁判、損害賠償額決定の民事裁判、それから、捜査に違法があった、たとえば実況見分で間違った、とかいう場合の救済を求める裁判、の3つが考えられます。

刑事裁判所    
ようやく被害者保護法の成立により、被害者の捜査記録の謄写が認められました。しかし現状では、ほとんど司法に尊重されていません。もともと刑事訴訟法47条をよく読むと、どうして今頃認めたのか、理解できない内容です。刑事訴訟法47条には『公判開始前に記録の謄写をさせない』としていますから、立法上は公判開始から被害者も閲覧謄写、すなわち捜査記録を見てもいいはずです。立法しても被害者に恩着せがましく、ようやく被害者保護が実現したような外観です。刑事訴訟上被害者が排除されているから法律が必要だったのです。もっとも加害者側は公判開始どころか、以前から謄写も出来、十分に検討できています。現実には今でも不公平です。したがって、運用面でも傲慢な態度が裁判所に見受けられます。『見るんやったら見ろ』との態度があります。謄写も時間がかかります。公判開始1回目以降にしか、遺族は見れませんから、そのうち公判期日2回目となり、裁判は終盤となる。公判期日は刑事裁判は、実に短いのです。あっという間に終わります。 意見陳述についても、遺族ができるとは誰も言ってくれません。刑事法廷には、被害者排除の理念が明らかにあります。被害者が黙っとけば、従来通りの被害者抜きです。裁判官はマニュアルに従うのみです。司法3者だけの劇であります。
用意しているマニュアル的判決書に『反省の情あり』としているものだから、被告人尋問でも、被告人に対ししつこく『何かありませんか』と問い質す。
被告人も思い出したように、慌てて『反省しています』『一生かかって償います』と言って審理終了します。
ところが遺族に何ら謝罪しなくとも、何ら償いの行動がなくとも、裁判官に反省していると言えば、反省ありとされ、裁判と判決が完結するのです。交通刑事裁判所が被害者保護の砦とは到底思えません。むしろまだ虐待の意味あいが強い気がします。

民事裁判
もう一つは交通民事裁判です。
交通事故の民事裁判は、まるで茶番劇とは言い過ぎとしても、交通事故の民事裁判自体が、あまりにマニュアル化されすぎています。損害論の画一化の要請が昭和40年代にあり、この流れは、事故態様のマニュアル化に及び、すべて過失相殺の表で処理されるようになりました。事故はそれぞれまったく違う要素で成り立っているのにです。同じように見えても、まったく違う場合が多いのです。同じように見えてもまったく違うのは、現場に行けばわかる事例ばかりです。過失相殺しかり、損害の画一化しかりです。
損害論では、損害の画一的処理の要請というもっともらしい表現をします。しかし不法行為の法律にはかかる条文はない。それで初めから一家の大黒柱でいくら、と決めたがる。おかしいですね。処理する側の理屈のみがあります。原告画一的処理の要請など役所の都合だけです。どれだけ悲しみが深いか、或は事故が悪質だから慰謝料が増えるとか、加害者の対応が悪質だとか、本来は裁判すべき事項がたくさんあるはずなのに、事件の本質、加害者の個別的対応について本格審理の態度さえ見えません。すべてが画一的要請の処理がごまかして司法や裁判所は要りません。
交通民事裁判は、マニュアルどおりとするのは、何も過失割合だけでありません。裁判手続きもマニュアルに従い、『捜査記録がおかしい』との言い分も通らない。民事裁判の中で事故態様が、たとえば実況見分と違う、あるいは被疑者の供述は嘘であるとか、被害者が仮に言っても、通じにくい面があります。交通事故の裁判は『すべてマニュアルで処理する』と思っている裁判官がほとんどです。ですから、実況見分が違うと争い、捜査記録が間違いだという被害者の主張はことごとく無視される。捜査記録がおかしいと主張しても、聞き入れることはないのです。

違法な捜査に対する国家賠償訴訟
それでは、捜査に違法があったら、国は救済するのか、というとこれも怪しい。捜査記録が間違いであり、或は捜査が違法であるとする国家賠償訴訟裁判が考えられます。民事裁判があまりにもマニュアル化され、捜査の違法を問えないとしたら、捜査自体の違法性を訴えるしかありません。つまり警察を訴えるとなります。いろいろ手を尽くして、警察の捜査や検察の処分に違法があるのではないか、と裁判したらどうなるのでしょう。もし捜査に不備があったり、或は検察に問題があったりして、この不当性や違法性を理由に損害賠償請求をすることができるのではないか、という問題があります。
ところが、捜査に不正があっても『市民の損害賠償請求はできない』という最高裁判例が何件かあるのです。理由は捜査や検察が何の為にあるか、と定義され、定義からいけば『捜査に不正があっても市民は救済されない』との理屈です。最高裁のこの言葉をいうと、『検察の起訴不起訴や警察の捜査は社会秩序のためにあるのであって、被害者のためにあるのではない 』ということです。
国には、捜査は絶対正しいとする価値観があり、捜査は被害者のためにあるのではない、とする理念があるのです。
 すると捜査は監視できないわ、後で捜査に不正があるとわかっても、被害者はその救済さえ受け得ない、という結末となります。被害者後進国家ニッポンの姿です。興味深い資料が最近犯罪被害者のあすの会というところから、ヨーロッパ視察報告が出ました中で、その定義が日本と明らかに違う定義をされています。顕著な差があることがわかりました。『犯罪被害者は、刑事司法上何の権利も与えられず、刑事手続きから排除されている。それのみか最高裁は、捜査や公訴提起は、国家や社会の秩序維持という公益目的のためにしているので、被害者の利益のためにしているのではないとしている。』ドイツフランスで出会った多くの法律家は『20年前までは、被害者は証拠品だった。しかし被害者の尊厳を守るために、被害者は当事者として、しかも恩恵としてではなく、権利として被害者は当然に刑事手続きの中に入らなければならないという反省が生れ、被害者と加害者とが同等の権利を持つような制度を作ってきた』そしてそのため絶えず法改正作業を行なってきている。被害者が参加することによって、より公平な判決が期待できる。また
『刑事手続きは公の秩序維持のためであることはもちろんだが、被害者の利益も守るものだともいわれた。』 
情報が開示されず、或は被害者排除システムの中で、遺族が権利を行使しようとした場合、遺族に閉塞状況があることがおわかりになったと思います。
結局、日本の裁判所は被害者のための砦でなく、被害者虐待ともいえるのでないか、ということです。