なぜ、交通事故が軽く扱われるのか(1) 平成15年5月14日
 

北海道交通事故被害者の会の講演内容を勉強しましたので、少しずつ発表させていただきます。北海道でも欠席せざるをえない遺族の為に。

なぜ、交通事故が軽く扱われているか、の点を考える上で基本ポイントが2点あります。

車は走る凶器か
第1点は、『車や事故をどう考えるのか』ということも大事だということを指摘しておきます。たとえば、『車は便利な道具か、走る凶器か』『事故は起こるべくして起きるのか、出会い頭で起こるのか』というような問題です。
まず、交通事故が発生した時に、事故をどう見るかについて、もともと難しい問題があります。過失じゃないか、という点を重視すれば、車は便利な道具でありますから、出会い頭の事故となります。しかし昨今のように、死亡事故被害者の遺族の会などがいうように『車は走る凶器』という考え方では、ドライバーが過失だけで処理されることに、遺族は納得できないとなります。この違いは、事故を、被害者の立場で見るか、加害者の立場で考えるかによってまったく違うということです。ある意味でまったく違う立場によって、事故発生後に、過失をどう考えるかとなります。こういう発想の違いが、なぜ軽く扱われるのか、というテーマとも関係します。被害者がこれまで排除されてきたシステムや社会、立法では、車は便利な道具であり、また事故が起こっても、軽く考えられ、出会い頭の事故として処理されてきたということです。

快適性の宣伝、被害に目が行かない社会
第2点は、被害者排除システムは、日常の生活にも有りまして、テレビなどのコマーシャルでは、車の快適性や事故を起こしても保険があるからいい、などと表面的なドライバーの快適さを、連日報道しております。被害の実情は、表には出にくい社会があります。事故発生しても、被害者がどういう目にあっているか、家族がどういう被害を受けたか、という被害者の実情は、新聞が興味をもつくらいで、あまり世に出ることはない。むしろ毎日報道されるのは、被害実情を無視するような、車社会の快適さの宣伝が日常的にあるということです。被害者は孤独な立場にあるのです。

被害者が声を挙げないと変わらない社会
しかし、今被害者運動が盛んになってきております。孤独だった被害者が連帯し始めている面が出てきて、声が現実に社会に受け入れられる社会になってきております。車は凶器でありますよ、という声が、現実的なものに、そして切実なものとなってきております。しかし、まだごく少数派にすぎず、世間や社会やシステムは、これを排除しているというのが現実の姿です。被害者の声による立法が日本で初めて成立しましたが、まだまだシステムの壁は厚いのです。その話をしばらくします。