かつての交通検察の理念 平成12年2月18日
 

1 かつての交通検察
昭和45年頃、交通事故死者数は1万5千人くらいであり、当時のベトナム戦争の年間死者数を超えるものがあった。そのため、交通事故防止の戦いを『交通戦争』として捉え、交通検察も正面から厳罰をもってこれに臨んだ時代があった。昭和46年に東京地検交通部長になった竹村照雄氏の半生記『一検察官の軌跡』によると、次のとおりである。「 交通検察について、明確な理念、『命を守る検察』を掲げる事ができた。命を守るために、ドライバーに要求されるものはなにか。車両には、生身の人間にはない重量と金属の強さがある。これにスピードが加われば、衝突時の破壊力はすさまじい。かくして、車は走る凶器と化する。ところで、交通事故で死傷者が出た場合、刑法的には業務上過失致死傷罪、すなわち過失犯である。しかし、極端なスピードオーバー、酒酔い、無免許の交通3悪といわれるものは、車を走る凶器として運転するという道路交通法違反の点では故意犯である。事故発生の危険性が極めて高いという事も十分認識可能であって、このような業務上過失致死傷罪は限りなく傷害致死の故意犯に近い実質を備えている。今や、個人法益侵害犯としての側面から、大きな社会問題=公共危険犯的性格すら帯びるに至った。もとより、善良なドライバーの過失犯も数多くあり、これらの人は事故を起こしたと言うだけで心を痛めている。・・・選択的厳罰主義を取り、従来の過失犯的処理を転換し、これを原則として身柄事件をして取り扱うよう警察を指導し、勾留中のまま、起訴すると共に、裁判結果についても、生命に対するその危険性を強調して、量刑につき実刑率を高めたのである。」と。
この時代には、すばらしい交通検察の理念があったのである。

2 昭和61年の東京高検の起訴基準作成
ところが、昭和60年12月からの伊藤栄樹検事総長の時代、東京高検内の業務上過失致死傷の処理基準・求刑基準が変更された。具体的には、傷害の基準が3週間以内のものについては、殆ど過失の如何を問わず不起訴にすることとしたのである。その結果、昭和61年に60%だった起訴率が、昭和62年には16.4%と激減した。
この東京高検の新基準に対しては、札幌高検を除き、唖然たる思いが他の地検にあったが、やがては全国の地検がこれに追随する形となり、全国的な基準となっていくのである。

3 多くの副検事の無念の声・疑問の声
この時点で、多くの副検事が無念の気持ちを持ったと言われる。先の竹村元高検検事は副検事の中に3つの疑問が出たと言う。
第1に、過失の如何に関わらず一定の傷害以下を一律不起訴にするという検察運営のどこに検察の理念があるのか?命を守る検察を標榜して来たのは何なのか?第2に、傷害の程度が3週間以下の事件が多い東京では、過失の如何を問わないとなれば、事件は右からは左へ片付くが、それで良かったという喜びが心ある副検事の本当の声であろうか?第3に、警察もどうせ不起訴なら捜査しなくても良いということになるのでないか?
副検事の使命感の喪失、検察活動の活性化の逆行を感じたと言う。交通検察の方針転換の場面では、かかる検察の理念をめぐる葛藤があったのである。

4 法務省の嘘のでっちあげ
このことについて、法務省や検察は、「一億総必罰化を避けるため」と、方針転換から5年経った犯罪白書で公言する。すなわち、「ドライバーの増大と共に前科前歴者の増大をもたらし、国民総前歴者に近づきかねない。ほかの刑事事件の処理でも起訴率が高くなって刑罰感銘力が低下する」と言うのである。
一方、被害者については、「保険制度の充実によって金銭賠償が図られるようになり、処罰をあえて臨む風潮にない」と言っている。
しかし、これらの法務省の言い訳は嘘であり、でっちあげである。方針転換の理由は、技術的理由しかないのである。「命を守る使命」と引換えにしたものは、『正義』であったのである。

5 命を守る検察の理念復活への願い
今、被害者の声が大きくなり、交通検察の理念が再び問われようとしている。法務省は世論の高まりを受け、犯罪白書の中で被害者の実態に若干触れていることもその現れである。
検察のかつての理念、「命を守る検察」を再び望み、これを切に願うのは、交通死の被害者遺族だけであってはならない。検察は、その使命に立ち返るべきである。検察の方針転換は、極めて事務的な事故処理となって今の交通取締りや検察の処分に現れており、被害者や遺族を十二分に苦しめているのである。もはや、士気の落ちた警察は、ほかの刑事警察部門においても不祥事を続発させている。交通事故処理の使命感喪失が、ほかの部門にも影響を及ぼしているのではとさえ危惧するほどである。交通検察の実態についても同様である。